球界屈指のユーティリティプレーヤーの選手と言えば!
『木村 拓也(きむら たくや)』選手の名が真っ先に浮かびますよね。
37歳という若さでこの世を去ってしまったので、そのユーティリティぶりを後世に伝えきる前に本当に惜しい人を亡くしてしまったという気持ちです。
そんな木村選手ですが、何故このようなユーティリティプレイヤーとなれたのでしょうか。
投手以外全ポジションが出来て、スイッチヒッターで、代打でも結果を残し、バントがうまく、盗塁もできる。
こんな選手今後現れるでしょうか?
内野外野の守備に限定すれば阪神の「大和」選手が若干そんな気はしますが、木村選手が偉大すぎますね。
そんなユーテリティぶりを象徴する試合が急遽捕手として出場した試合でしょう。
当時はどのチームも捕手3人制をとっていたので何故捕手として出ることになったのか、気になります。
そんな木村選手について家族についても合わせて調べてみました。
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木村拓也のプロフィール
出典:https://blogs.yahoo.co.jp/
出身地:宮崎県宮崎郡田野町
生年月日:1972年4月15日
没年月日:2010年4月7日
身長:173cm
体重:75kg
プロ入り:1990年ドラフト外
デビュー:1992年9月29日
高校時代は捕手としてプレーしていました。
県立の宮崎南高校で1年生の時に甲子園に出場していて、3年春には何と5打席連続三塁打を放つという珍しい記録を持っています。
高校通算35本塁打も記録していて、強打というより巧打の選手という感じでした。
高校卒業後、1990年にドラフト外で日本ハムに入団します。
今はもうドラフト外という制度は練習制制度と共に廃止されてしまったのですが、当時はドラフトで指名できる人数が6人までと少なく1990年まで存在していたんです。
1992年の「古河有一」選手の特例的なものを除き、木村選手は最後のドラフト外入団の選手の1人ということになりますね。
この時はもちろん捕手としての入団でした。
捕手からのコンバートの選手って結構多いですよね。
木村選手本人はこのドラフト外入団について「今で言う育成選手ですよ」と振り返っています。
ドラフト制度の抜け穴的な使われ方がなければ、ドラフト外入団は今もあったのでしょうか。
木村拓也のユーティリティぶりが凄い!
木村選手は投手を除くポジションを全て守った経験があります。
wikipediaの通算守備成績を見ると、一段で表示しきれない状態です。
1番多く守ったのが二塁で外野、遊撃、三塁、一塁、捕手と続きます。
最初に所属した日本ハムで捕手としての入団でしたが、出場機会に恵まれず何とか試合に出たいという一心で空いてるポジションに入ろうとしたとか。
その結果ユーティリティプレイヤーに成長したのでしょう。
野球選手としては小柄だったので、その努力は想像を絶するものだったのではないでしょうか。
木村選手の活躍ぶりを象徴する出来事の1つにアテネオリンピックの代表が挙げられます。
出典:https://www.jiji.com/
オリンピックではベンチ入りできる選手が24人とかなり少なく、裏方のスタッフも非常に少なかったんですよね。
さらに代表選出の基準も1チーム2名以内という申し合わせがあり、木村選手はあの「黒田博樹」氏とカープから代表に選ばれました。
そんな中、複数ポジションが守れて捕手の経験もある木村選手は出場試合は2試合と少なかったものの、雑用やブルペン捕手を積極的にかって出たそうです。
アテネオリンピック代表の監督を務めた「長島茂雄」氏も「率先して裏方の仕事を手伝い、銅メダルに貢献してくれた」と絶賛していました。
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木村拓也の急造捕手の試合が気になる!
木村選手のユーティリティぶりを語るのにオリンピック以上に外せないのが、2009年9月4日のヤクルト戦でしょう。
木村選手は8回から二塁手として出場し、先発捕手として「鶴岡一成」選手が、正捕手の「阿部慎之助」選手は一塁手として出場します。
阿部選手は7回で守備交代、鶴岡選手は8回に代打を送られ、9回は「加藤健」選手が捕手を務めます。
勝負は9回で決着がつかず延長戦になりますが、11回裏に加藤選手が頭部死球を受けて退場を余儀なくされてしまったんです。
阿部選手も鶴岡選手もすでにベンチに退いてしまっているので、12回裏を守る捕手がいなくなってしまうという緊急事態になってしまいました。
そこで二塁手として出場していて捕手経験のある木村選手が選ばれたんです!
当時の「原」監督が木村選手を探したところ、声がかかる前にブルペンで捕りにくい変化球を捕る練習をすでにしていたとか。
内野外野用のミットを持ち歩いていた木村選手でしたが、さすがに捕手用のミットは持っておらず、鶴岡選手に借り、他の防具はブルペンキャッチャーから拝借したとか。
そして捕手、木村拓也がグラウンドに現れたんです!
出典:http://logiura.blog71.fc2.com/
配球のサインはベンチから出すとのことでしたが、木村選手は12回裏の守備をベンチを見ずに3投手を見事リード。
無失点でその試合を引き分けに持ち込みました!
もちろんこれは原監督も、その試合を解説していた「山本浩二」氏も大絶賛。
それに対し木村選手は「もう捕手はやりたくない」と言っていました。
当時広島の監督だった「達川光男」氏は「やりたくない発言は本職の捕手を立てる気配り」と解釈していましたね。
木村拓也の家族について
木村選手は37歳という若さでこの世を去ってしまいましたが、残された家族は妻と長男、長女、次男といます。
そのうちの長男は、木村選手が亡くなった後に行われた追悼試合の始球式でボールを投げています。
木村選手が亡くなる前も、「ズムサタ」で取材を受けていたことがありましたね。
2016年には、「爆報!THEフライデー」で家族のその後の特集がありました。
出典:http://kyosp.blog.jp/
それによると、妻は仕事をせず遺産の切り崩しで生計を立てているとか。
木村選手は無駄遣いとかしそうなイメージないですし、残された家族が問題なく生活できるほどのお金があるんでしょう。
調べてみたら生涯年俸は6億以上あったので、半分税金を払ったとしてもマイホーム建てて一般市民の生活なら問題なくできそうです。
長男は高校球児となり甲子園出場を目指したようですが、残念ながら県大会2回戦で夏が終わってしまいました。
お父さんのようにプロを目指すわけではなく、今後は建築に携わりたいと進学を希望しているとか。
実際野球やってみてその厳しさを肌で感じたのかもしれませんね。
長女はバスケットボールをやっているようで、下手な男子より面構えのいいボーイッシュな女子のようになっていました。
次男については走る姿が父親似というくらいしか情報がありませんでした。
木村選手を中心とした和やかな家族という印象でしたが、今後のご活躍を祈念します。
最後にまとめ
いかがでしたか?
木村拓也選手について簡単にまとめると
②投手以外のポジションを1軍で守った経験を持つ。一番多いのが二塁で外野、遊撃、三塁、一塁、捕手と続く。アテネオリンピックでは率先して裏方を手伝い銅メダルに貢献。
③2009年9月4日のヤクルト戦で、捕手2人がベンチに退き3人目の捕手が頭部死球で退場を余儀なくされた時、借り物のミットと防具で急造捕手として出場。見事3人の投手をリードし役割を果たした。
④木村選手には妻と長男、長女、次男がいる。長男は高校球児となるが卒業後は建築を学ぶ意向。長女はバスケットボールをしている。次男は走る姿が木村選手にそっくりらしい。
といったところでしょうか。
おそらく今後、200勝投手や打者の三冠王並みに現れることがない本物のユーティリティプレーヤーだったと思います。
早すぎる死が本当に惜しい人でした。
ご冥福をお祈りします。
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