野球にはいろんなドラマがあります。
例えば、2017年のプロ野球では七夕悲劇と言われて逆転劇や、横浜DeNAベイスターズの首位広島への3試合連続サヨナラ勝ちなど。
その数あるドラマのうちの『稲尾 和久(いなお かずひさ)』選手が起こしたドラマを紹介してきたいと思います。
稲尾選手と言えば、やはり4連投4連勝し3連敗して絶体絶命だったチームを優勝に導いたことでしょうか。
もう昔のことなので、当時を知るプロ野球ファンは少ないかもしれません。
そのことも含め、今回は稲尾選手の現役時代の成績、現役時代はどんな選手だったのかを紹介していきます。
[quads id=1]
稲尾和久のプロフィール
出典:http://www.seibulions.jp/
出身地:大分県別府市
生年月日:1937年6月10日
没年月日:2007年11月13日(70歳没)
身長:180cm
体重:80kg
プロ入り:1956年
所属球団:西鉄ライオンズ (1956 – 1969)
デビュー:1956年3月21日
今回ご紹介する稲尾和久選手ですが、実はもう亡くなっています。
70歳にして亡くなりました。
2007年に亡くなっていますので、約10年前の出来事になります。
出典:http://www.bs-j.co.jp/
もし今、生きていたら「野村克也」さんのように、テレビで解説者として活躍していたのかもしれません。
死因は悪性腫瘍だったようです。
有名な話ですが稲尾選手は漁師の息子でした。
そのため、もしプロ野球選手になっていなかったら漁師さんになっていたかもしれません。
今と違い当時の野球は、エースと呼ばれる投手は先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前で、週2・3回の登板や連投も珍しくありませんでした。
先発やリリーフもこなした稲尾和久選手を見ていきます
[quads id=2]
稲尾和久の伝説がすごい!逆転優勝4連投!
神様、仏様、稲尾様って聞いたことありますか?
聞いたことない人きっといるでしょう。
1958年の日本シリーズで見せた、稲尾選手のピッチングに対する最大限の賞賛として使われました。
出典:https://yansue.exblog.jp/
1958年、「三原脩」監督率いる西鉄ライオンズは、南海ホークスに大逆転リーグ優勝を達成しました。
そして迎えた日本シリーズ、相手はこの年入団した「長嶋茂雄」氏を擁する読売ジャイアンツ。
3年連続日本一がかかる西鉄ライオンズでしたが、なんと3連敗。
それも1戦目と3戦目に稲尾選手が先発し、負けています。
そして雨で後がなくなったライオンズは、1日雨で休養を挟み稲尾選手が先発し、見事完封勝ち。
5戦目はなんと延長で稲尾選手が登板。
10回表も三者凡退で抑えた稲尾選手は、裏にまさかのサヨナラホームランを打ちチームをサヨナラ勝ちに導きます。
そして第6戦には再び稲尾選手が先発し、なんと稲尾選手が最後まで投げ切り完封勝ち!そして最終戦。
再び稲尾選手が登板して、なんと1失点完投で見事日本一!
ライオンズを日本一に稲尾選手が導いたといっていいでしょう。
稲尾選手は当然ながら日本シリーズMVPに選ばれ、「神様、仏様、稲尾様」と見だしで1面を飾りました。
稲尾和久の成績がすごい!レジェンド級の活躍!
今では有名ですが、プロに入った当時は全くの無名で、オープン戦ではスコアボードに名前を間違えられ「稲生」と表示されるほどでした。
しかし、ここで結果を出して稲尾選手は開幕1軍に入ります。
1956年、ルーキーイヤーから稲尾選手は活躍します。
開幕戦でさっそく登板。
6回表からプロ初登板、4イニングを無失点で終えました。
その後は敗戦処理に投入されることが多かったのですが、主力の故障などで登板機会が増え、1年目の成績で21勝6敗、防御率1.06と、驚異的な数字を叩き出しました!
そして、この年の新人王と最優秀防御率に輝きました。
ちなみにこの防御率1.06という数字はパ・リーグで誰にも破られていません。
1年目から最優秀防御率を獲得し、今でも破られない数字を残す稲尾選手はすごいですね。
出典:https://mobapro2.gamerch.com/
1957年シーズンには35勝を挙げ、リーグ最年少のMVPを獲得する活躍!
1958年シーズンは33勝でMVPに輝き、チームも日本一に輝きました。
1959年にも30勝を挙げて、「3年連続30勝」を達成!
1956年~1958年には3年連続日本一で、西鉄黄金期を支えました。
こう改めて見てみると、稲尾選手がレジェント級の活躍をしてきたと言っても過言ではないですね!
稲尾和久のエピソードがすごい!
ここまで驚異的な活躍をしてきた稲尾選手ですが、現役時代の過度な酷使が原因で選手生命が短くなってしまいました。
出典:http://column.sp.baseball.findfriends.jp/
稲尾選手のプロ野球人生は14年間。
そのうち10勝以上あげたのが10年間でした。
監督の起用があり選手生命が縮んだと言っていいでしょうが、この当時の監督の「三原」監督は稲尾選手が引退した後、「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった。」と告白しました。
しかし稲尾選手は、それに対して恨んでることもなく「当時は投げられるだけで嬉しかった」と言っています。
それに稲尾選手は、チームがピンチになると監督が言葉にしなくも自然と行かなくては行けないと感じたようで、現役時代は70試合以上に登板することもありました。
先発ピッチャーが70試合以上に登板するなんて、今では考えられないことですよね。
ちなみに稲尾選手や、南海ホークスの「杉浦」選手や中日ドラゴンズの「権藤」選手などが酷使で選手生命を縮めてしまい、これはいけないということで導入されたのが今でもある先発ローテです。
最後にまとめ
いかがでしょうか?
稲尾和久選手についてまとめると
②1958年の日本シリーズは、3年連続日本一がかかる稲尾選手が率いるライオンズ対今年1年目の長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツ。稲尾選手が「神様、仏様、稲尾様」と言われるほどの成績を残し日本一に導いた。
③21勝6敗、防御率1.06という驚異的な数字を1年目から叩き出す。ちなみにこの防御率1.06という数字はパ・リーグでいまだに破られていない
④当時の監督の三原監督が酷使したことを謝るも稲尾選手は特に恨んだりはしてない。ちなみにこの酷使がきっかけで先発ローテが始まった
今の先発ローテにもつながった稲尾選手。
今ではもうこんなドラマ起こらないかもしれませんが、稲尾選手の伝説は野球ファンにとっては永遠です。
日本野球界に誇れる選手の一人ですね!
[quads id=4]