原辰徳の現役時代がすごい!中畑清はチームメイトでもありライバル!?

人の歴代監督といえば誰が印象に残りますか?

まず最初に名前が出てくるのはV11を達成した「川上哲治」監督でしょう。
「高橋由伸」も有名ですね。
由伸監督についてまとめた記事もあるのでぜひそちらも読んでみてください。

由伸監督の前の監督は誰か知っていますか?
長年巨人の監督を務め、現役時代は巨人の四番も務めた『原 辰徳(はら たつのり)』選手です。

現役時代は巨人の四番を務め、巨人をリーグ優勝、日本一にも導いたこともある原辰徳選手。

そんなの原辰徳選手の現役時代について今回は紹介していきます。

原辰徳のプロフィール

原辰徳
出典:Twitter
  • 名前:原 辰徳(はら たつのり)
  • 出身地:神奈川県相模原市
  • 生年月日:1958年7月22日
  • 身長:181cm
  • 体重:88kg
  • プロ入り:1980年 ドラフト1位
  • 所属球団:読売ジャイアンツ (1981 – 1995)
  • デビュー:1981年4月4日
  • 監督歴:読売ジャイアンツ (1999 – 2003, 2006 – 2015)

人の監督を務め、現役時代は巨人の四番も担った原辰徳選手。
プロ入りしたのは1980年のドラフトでした。
1980年なので、もう30年以上も前のことになります。

原選手が引退したのは1995年のことでしたので、現役だったのももう20年近く前のことになります。
そんな原選手は2015年まで巨人の監督も務めました。

そんな原選手は東海大相模高校出身。
2015年は甲子園で優勝し、あの巨人のエース「菅野智之」選手の出身高校でもあります。

原辰徳の現役時代がすごい! 巨人の四番!

辰徳選手は1980年のドラフトで1位指名を受け巨人に入団しました。
大学時代からプロのスカウト注目選手でした。
原選手の出番は1年目からやってきました。
当時2015年目まで横浜の監督を務めていた「中畑清」監督がサードのレギュラーでしたその中畑選手がけがをしたのがきっかけで原選手に出番が回ってきました。
1年目からサードのレギュラーとして試合に出場し100試合以上に出ました!そして見事新人王を獲得しました。
翌年のサードのレギュラーとして固定され33本のホームランを打ちました。
さらに3年目には3割30本100打点も達成しました。
2017年シーズンで3割30本100打点を達成したのは横浜DeNAの「ロペス」たった一人なんですよ。
実は難しい3割30本100打点って難しいんですよ。
この年から原選手は4番を打つようになりました。
原選手が四番を任されるようになったのは1883年でした。
それから「落合」選手が移籍してくる1994年まで四番を打つようになりました。
約10年間巨人の四番を担いました。

原辰徳はどんな選手? 現役時代のエピソード

辰徳選手が当時現役時代だった打線にはどんな選手がいたのでしょうか?
原選手が四番を任されるまでの4番は「中畑清」選手でした。
その前は歴代通算最多本塁打記録保持者の「王貞治」選手でした。
王選手は多くの野球ファンが知っている有名な選手ですよね。
原選手が四番を任されていた時に王選手が監督が務めていたこともありました。
原選手は王監督に4番を任されていたんですね。
原選手は落合選手が移籍してきた1883年から一気に出番が減りました。
それと同時期に大きなけがをしてしまった原選手は出番が大きく減りました。
原選手は15年の現役のうち巨人で過ごしました。
この15年のうち10年間巨人の四番を任されていました。
原選手は2000本安打こそは達成できなかったものの382本のホームランを打ちました。
350本以上のホームランを打った野球選手は現在横浜DeNAベイスターズで監督を務める「アレックスラミレス」監督は380本のホームランを打ち現在中日ドラゴンズの2軍監督を務める「小笠原道大」選手は378本のホームランを打っていますよ。

原辰徳と中畑清はチームメイトにしてライバル!?

辰徳選手といえばどの選手を浮かびますか?
今回原辰徳選手と一緒に紹介したいのはさきほどから名前が出ている「中畑清」選手です。
さきほども紹介して通り中畑清選手は現役時代は原選手とチームメイトでした。
原選手がスタメンに抜擢されたきっかけは中畑選手がけがをしたことがきっかけでしたね。
それから中畑選手と原選手は一緒に打線の軸となりました。
原選手がサードで中畑選手はファーストで試合に出ていました。
現役時代、原選手がレギュラーがとったことでけがから復帰した中畑選手はサードのポジションが空いてなくファーストにコンバートされました。
ちなみに原選手が4番を打っていた一方中畑選手は7番や6番を打っていました。
しかし1985年は原選手が4番を打ち中畑選手は5番を打ちました。
現役時代引退後も中畑選手と原選手の関係は続きました。
中畑選手は2012年から横浜DeNAベイスターズの初代監督に就任することが決まりました。
そのころ原選手は巨人の監督をつとめました。
現役時代はチームメイトだった二人が引退後は監督としてライバルになるって面白いですね。

原辰徳は長年巨人の監督を務めた!

原辰徳監督は1981年にプロ入りし、1995年に現役を引退しました。
その4年後の1999年に巨人のコーチになりました。
そして2001年には原辰徳「監督」が誕生。

原監督が巨人の監督に就任したころは「上原浩治」選手がまだ巨人にいました。
また「清原和博」選手もまだ現役で巨人の四番を打っていました。
「松井秀喜」選手がまだ日本にいて、現在巨人の監督を務める「高橋由伸」監督が3番を打っていました。

原監督は監督就任の1年目からリーグ優勝を達成。
さらに日本シリーズを全勝し、日本一になりました。
ちなみに「新人監督で日本シリーズ全勝で日本一」は史上初のことでした。
原監督の前任はあの「長嶋茂雄」監督でした。
長嶋茂雄監督の意思をしっかり引き継ぎました。
翌年のシーズン終了後に監督を解任されますが、2006年に再び監督に復帰。
2015年まで約10年間、巨人の監督を務めました。
最初の監督期間も含めるとなんと12年も巨人の監督を務めたことになります。
そのうち11回Aクラス、1回Bクラスという優秀な成績を残しました。

原辰徳の監督時代はどんな選手がいた?

原辰徳監督はいったいどんな監督だったのですか?11回チームをAクラスに導いた監督ですね。
原監督はセリーグの最優秀監督賞に4回選ばれています。
初めて日本一になったのは監督に初めて就任した時は2001年でした。
原監督は12年間監督で3回日本一になりました。
2002年のほかに2009年、2012年に日本一になりました。
2009年は3番は「小笠原道大」選手がいて4番には「アレックスラミレス」が打っていました。
オガラミコンビとも呼ばれていました。
小笠原選手は現在中日ドラゴンズの2軍監督を務めています。
ラミレス選手は現在横浜DeNAベイスターズの監督を務めています。
ほかには現在でも現役の「亀井」選手がいました。
「李承燁」選手もまだ巨人にいました。
2012年には1番に「長野」選手が座り3番には「坂本」選手がいました。
2012年は原監督にとって3回目の優勝でした。
投手にはまだエースに「内海哲也」選手がいました。
ほかには「杉内俊哉」選手もいました。
リリーフには「山口哲也」選手がいました。
エースには内海選手と杉内選手のWエースにリリーフには山口哲也選手のほかには「西村」選手がいました。

原辰徳は国際試合の監督も! 日本一に導く

巨人でなんどもリーグ優勝、日本一を経験した原辰徳監督は国際試合の監督にも就任しました。
現在日本のプロ野球日本代表選手のことを『サムライジャパン』と現在いいますね。
その『サムライジャパン』と名付けたのは原監督なんですよ!
原監督が名付けた『サムライジャパン』って今でも使われていますよね。
この大会の主人公は「イチロー」選手でした。
イチロー選手は日本でも有名な野球選手の一人ですよね。
しかし今大会では調子が悪く特に予選では活躍することができませんでした。
しかしアメリカに場所が移るとだんだんイチロー選手の調子が上がってきました。
イチロー選手はホームランを打つことはありませんでしたが勝負強いバッテイングを披露しました。
予選で調子が悪くてもスタメンから外さなかった原監督もすごいですよね。
結果イチロー選手が決勝戦で勝ち越しタイムリーを打ち延長戦を制しWBC優勝を達成しました。
イチロー選手が勝ち越しタイムリーを打った後の裏は「ダルビッシュ有」選手が締めて見事胴上げ投手になりました。
当時はダルビッシュ有選手やイチロー選手のほかにも「城島健司」選手や「岩隈久志」選手などがいました。

最後にまとめ

かがでしょうか?
原辰徳選手について簡単にまとめると

①現役時代は巨人の四番に。サードのレギュラーだった中畑選手が怪我をしたことがきっかけでレギュラーに抜擢される。
②歴代通算本塁打記録1位の王貞治選手に監督を任された。10年間巨人の四番を任された。2000本安打は達成できなかったが350本塁打は達成。現役時代は通算382本のホームランを打った
③中畑清とは現役時代はチームメイト。現役引退後は中畑清は横浜DeNAベイスターズの監督して原辰徳は巨人の監督としてライバルとして監督に

今回話に出てきた中畑清監督は選手時代と監督時代の記事があるのでぜひ読んでくださいね。
原辰徳選手は監督時代のもあるのでぜひそちらのもどうぞ。