沢村栄治は戦争を経験した野球選手!?投球フォームが凄い!沢村賞の基準も

村賞というタイトルがあるのを知っていますか?
ある基準をクリアした投手に贈られるこのタイトルですが、両リーグ合わせて一人の選手にしか送られない特別な賞でもあります。
そのシーズン成績を通して一番成績が良かった投手に贈られます。
まさに投手にとって最高の栄誉『沢村賞』

2017年、2018年シーズンと連続で巨人の「菅野智之」選手に贈られました。

この沢村賞ですが、実はもとになった選手がいることを知っていますか?
その野球選手の名前は『沢村 栄治(さわむら えいじ)』といいます。
この選手は野球選手の中でも「戦争に出兵したプロ野球選手」なんです。
戦争を経験した数少ないプロ野球選手である沢村栄治選手について今回は紹介していきます。

[quads id=1]

沢村栄治のプロフィール

沢村栄治
出典:https://ent.smt.docomo.ne.jp/
名前:沢村 栄治(さわむら えいじ)
出身地:三重県宇治山田市
生年月日:1917年2月1日
没年月日:1944年12月2日(27歳没)
身長:174cm
体重:71kg
プロ入り:1934年
所属球団:大日本東京野球倶楽部・東京巨人軍
デビュー:1936年7月1日

村栄治選手は1917年生まれ。
1917年といえばまだ第一次世界大戦が行われていた時代。
ヨーロッパが戦火に包まれる中、沢村選手は遠い極東の日本という地で生まれました。

沢村選手は高校時代から才能を発揮して大活躍をします。
その後は全日本メンバー、今でいう侍ジャパンのメンバーに選ばれ、アメリカのチームと対戦しました。
プロ入り後は「東京巨人軍」という今の巨人の遠い昔のチームに入団しました。
高校時代から活躍していた沢村選手は、プロ入り後もプロの世界で活躍をします。
しかし1939年、第二次世界大戦が勃発。
太平洋戦争がはじまり沢村選手は兵士として戦うことになりました。

沢村栄治はどんな選手だった? 投球フォームが凄い!

『沢村の前に大投手なく、沢村の後に速球派投手なし。』
沢村栄治選手の現役時代はもう80年以上前のことになりました。
沢村選手のことを直接見たことがある人はもちろん当時を生きていた人も少なくなりました。
沢村選手は左足を高く振り上げる唯一無二のフォームから放たれる剛速球と、三段に落ちるといわれたドロップ(現在で言う縦のカーブ)を武器に活躍しました。

沢村栄治
出典:https://www.sports-idai.com/

沢村選手の剛速球ってどのくらいなんだと疑問に感じる人はいると思います。
現在はメジャーに挑戦した「大谷翔平」選手が164キロを投げ、日本プロ野球の最速記録を更新するなど、今では150キロを超えるボールを投げる投手がどんどん増えてきました。

阪神の「藤浪晋太郎」選手も160キロには届かないものの、最速は159キロととんでもないスピードを出します。

では沢村選手はどのくらいのスピードを出していたのでしょうか?
当時は技術が発展していないため、まだ「スピードガン(投げたボールのスピードをはかる道具)」がありません。
そのため沢村選手の球速は映像などから判断する方法しかありません。
テレビでもとりあげられ、それらを分析すると沢村選手は約160キロ近いボールを投げていたのではないのか?と言われています。

[quads id=2]

沢村栄治は戦争に行った野球選手

村栄治選手はその圧倒的な実力で1年目から先発として活躍。
「最多勝」「奪三振王」「最優秀防御率」などのタイトルも獲得しました。
投手三冠王の獲得もしました。
プロ野球史上初となるMVPに選出され、ノーヒットノーランを何度も達成。

しかし沢村選手がプロだった当時、日本はアメリカと戦争をしていました。
「第2次世界大戦」と呼ばれアメリカとは「太平洋戦争」が行われました。
そして沢村選手もその戦争の兵士として戦争に参戦することになります。
戦争に参戦する前に3回のノーヒットノーランの完全試合を達成しています。

沢村栄治は戦争に行った野球選手
出典:Twitter

沢村選手は日中戦争に参戦するため中国で戦いますが、そこで右肩を負傷してしまいます。
沢村選手は右投げ。
沢村選手にとって右肩というのは普通の人よりとても大切なものです。
しかし沢村選手はそれくらいで倒れる選手ではありませんでした。

マラリアという感染症にかかるも、右肩を痛めたことでオーバースローからの速球が投げられなくなりましたが、すぐにサイドスローに転向しました。
抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球を披露し、サイドスローに転向後も3度目のノーヒットノーランを達成しました。

沢村栄治は戦争で亡くなった野球選手 沢村栄治賞(沢村賞)の基準は?

争に参戦し怪我をした沢村栄治選手はそれほどでは倒れる選手ではありませんでした。
サイドスローに転向した後も活躍しました。

しかし沢村選手は再び戦争に出兵することになってしまいます。
沢村選手が次に戦争に参戦することになったのはフィリピン。
しかしフィリピンでの移動中にアメリカの潜水艦に遭遇し、そこで船と一緒に沢村選手は亡くなってしまいました。
沢村選手は戦争で戦死したことになりました。

そして沢村選手の今までの活躍をたたえ「沢村栄治賞(沢村賞)」が作られました。

沢村栄治賞

沢村賞受賞の基準はいくつかあります。

  • 完投試合が10試合以上であること。
  • 勝利数が15勝以上であること。
  • 勝率が6割以上であること。
  • 投球回が200回以上であること。
  • 奪三振数が150個以上であること。
  • 防御率は2.50以下であること。

など沢村賞には基準があり、この基準を達成した投手の中で一番優れた投手に贈られます。
もちろん優れた投手がいなければ、沢村賞受賞投手がいない年もあります。

最後にまとめ

かがでしたか。
沢村栄治選手について簡単にまとめると

①沢村選手は第一次世界大戦中の1917年生まれた。1934年に「東京巨人軍」へプロ入り。
②「沢村の前に大投手なく、沢村の後に速球派投手なし」160キロ近いボールを投げていたのではないかと言われている。
③戦争に出兵した数少ない野球選手。右肩を壊しサイドスローに転向したが、サイドスローでも活躍した。
④戦争で亡くなったことがきっかけで、今までの功績をたたえるため「沢村栄治賞(沢村賞)」が作られた。

今もたくさんの速球派の選手がいますが、沢村栄治選手は遠い昔から160キロというボールを投げていました。
そして戦争の時代を生きたプロ野球選手。
私たちにいろいろなメッセージを残してくれた沢村栄治選手。
これからも決して忘れてはいけない伝説の選手でしょう。

[quads id=4]