ブルージャスティスこと『永田 裕志(ながた ゆうじ)』選手。
アマレスでの輝かしい実績を引っ提げ、1992年新日本プロレスに入門しました。
この時代は主に新日本プロレスと全日本プロレスの2大団体から、FMWをはじめとした多くのインディー団体が旗揚げされたときでもあります。
そして1990年代後半からはK-1、PRIDEといった総合格闘技がはじまっていきます。
このようなプロレス界にも大きな動きがあった時代で、永田裕志が「どう活躍していったか?」に迫っていきたいと思います。
波乱万丈なレスラー人生を知ることで、更なる魅力が…!?
永田裕志と猪木の関係や敬礼ポーズ、白目についても迫っていきましょう。
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永田裕志のプロフィール
出典:Twitter
本名:永田 裕志(ながた ゆうじ)
ニックネーム:ブルージャスティス
生年月日:1968年4月24日
出身地:千葉県東金市
身長:183㎝
体重:108㎏
デビュー:1992年9月14日
得意技:バックドロップホールド、腕固め、エクスプロイダー、ナガタロック、ナガタロックⅡ、ナガタロックⅢ、ナガタロックⅣ
日本体育大学レスリング部に所属し、1988年全日本学生選手権、1989年全日本大学グレコローマン選手権で優勝しています。
そして弟の「永田克彦」は、シドニー五輪のレスリング銀メダリストになったことはみなさんもご存じではないでしょうか?
そして日本の政治家で元プロレスラー、レスリングでもロサンゼルス五輪に出場した「馳浩」の紹介で新日本プロレスに入門することになります。
ここから永田裕志のプロレス人生がスタート!
幾多の名勝負を繰り広げ、プロレス界だけでなく、選手育成といったことでアマチュアレスリング会にも貢献していくことに…!!
永田裕志の魅力に迫る!
2002年4月5日、永田裕志が「安田忠夫」を倒し、はじめてIWGPのベルトを巻きました。
第31代IWGPヘビー級王座として、そこから歴代最多記録の10連続防衛記録を達成し、「ミスターIWGP」と呼ばれるほどに…。
このV10を達成したときの対戦相手には、(帝王)「高山善廣」や総合格闘技での活躍が有名な「藤田和之」、あのUFCで史上最年少ヘビー級王者となった「ジョシュ・バーネット」といった蒼々たる選手たちが相手だったのです。
さらにこの当時は総合格闘技ブームであり、2001年の大みそかに総合格闘技の試合にも出場しています。
そして対戦相手が、なんと藤田和之を倒している「ミルコ・クロコップ」!!しかし試合開始21秒後に左ハイキックで敗北。
それでも2003年大みそかにまた総合格闘技の試合に再び出場することに…。
今度は「60億分の1の男」と呼ばれ、総合格闘技界最強と言われた「エメリヤーエンコ・ヒョードル」と戦っているのです。
結果はこちらもTKO負けとなってしまいましたが。
出典:https://www.reddit.com/
こんな永田選手はプロレス界では文句なく最強であったと言えますが、総合格闘技での成績は惨敗、周囲の噂等では「プロレス最強説」はこれで大分薄れたなんて言われました。
ただミルコ戦に関していえば、レスラーは技を受けることも美学であり、左ハイキックを受けた後にレフリーの試合を止めたのがもう少し遅かったら…?(プロレスファンは信じたい!)
またヒョードル戦に関していえば、試合が正式決定したのが大会の2日前、これでも総合格闘技界最強選手との試合を受けるのですから、レスラーとして「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」とはこのことですね!!
言い訳がましくなってしまいましたが、永田選手はプロレスラーとしてたとえ負けはしましたが、少なからず勇気や希望を与えてくれたこともあったのではないでしょうか。
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永田裕志と猪木の関係は?
永田選手が総合格闘技で闘った大会は「INOKI BOM-BA-YE 2001」と「INOKI BOM-BA-YE 2003 馬鹿になれ夢をもて」の2大会、共に「アントニオ猪木」さんの名前が入った大会となっております。
最初のミルコ戦でも猪木氏から直接「出たいんだろ?俺には見えるんだよ」と言われ、もちろん永田選手自身も興味があったことで実現したと本人の著書である「永田さんの考えたこと」に記述されています。
ただ後の2003年「ヒョードル」選手と闘った大会では猪木氏をはじめ、多くの大会関係者を永田選手が救ったとされています。
出典:Twitter
前項でも書いた通り試合が正式決定したのが2日前、これまでに対戦相手がヒョードル選手以外になったり、またヒョードル選手になったりと、挙句の果てには大会自体が消滅してしまう?といった怪しい展開に…
このような状況の中、永田選手はアントニオ猪木氏から大会出場を懇願されたのです。
ここで永田選手は「試合をやりたい、やりたくないではなく、アントニオ猪木を守る、犠牲になるというか、それだけですよ」と後に語っています。
しかし猪木さんは守ることはできたが、その代わりに敗北による世間からの猛バッシングを受けることになるのです。
それでも永田選手はバッシングにもめげずにプロレスラーとして歩んでいくのです。
まさに大会名にもある「馬鹿になれ夢をもて」に相応しいことを成し遂げたのではないでしょうか?
「元気があれば何でもできる!」いつも猪木さんの言っていることを永田裕志は体現しているのです。
永田裕志の敬礼ポーズや白目って!?
一昔前であれば「ハルクホーガン」の耳当てポーズや猪木さんの1・2・3 ダー!などが有名でしたね!
それではプロレスラーのポーズやムーブをいくつか取り上げてみましょう。
気になる方はネットなどで観てください!
「武藤敬司」プロレス LOVE、「棚橋弘至」エアーギター、愛してま~す!、「高山善廣」ノー・フィアー!、「中邑真輔」イャオ!!、「内藤哲也」アブレ・ラ・オホ、「オカダカズチカ」レインメーカーなどなど
プロレスラーにとって試合前や試合中、試合後といったとある場面で「魅せ場」があります。
これはここぞというときに魅せるポーズであり、ムーブメントになるのです。
プロレスファン以外であっても「知ってる!」なんてことはざらにあることで、アントニオ猪木氏の「1・2・3 ダー!」なんていうのはいまだにいたるところで行われ、知名度の高いことの表れでもあります。
そこでいよいよ永田選手ですが、知名度バツグンのものが「敬礼ポーズ」!!
出典:http://nagata-lock.jp/
これは2000年頃から必殺技の「ナガタロック」をかける前に会場の隅まで見渡す意味を込めて始めたのがきっかけだそうです。
今では「1・2・3 ゼァ!!」と「敬礼ポーズ」をすることはファンにとってはなくてはならないこととなっています。
2018年サッカーW杯ロシア大会セネガル戦にて本田圭祐選手が同点ゴールを決めた際に岡崎慎二選手と披露した「敬礼ポーズ」は永田選手の「敬礼ポーズ」ではないかとネットで騒がれるほど、「敬礼ポーズ」と言えば永田裕志ということが浸透している証拠ですね!ただ師匠のアントニオ猪木氏からは批判されていたとか…!?
もうひとつ永田裕志と言えば「白目」ですね。
これは「腕固めをしながら白目を剥く」という2006年頃から注目されるようになり、最近では腕固めが決まった際に「白目」コールが起こるほど会場が盛り上がる場面のひとつであります。
白目が出る前に技を返されたりすると「ブーイング」が起こるほどです。
またある時期には「白目」を見るとご利益があるとまで…!?
最後にまとめ
いかがでしたか?
永田裕志選手について簡単にまとめると
②プロレスラーとして「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」この姿勢こそ永田裕志の魅力!
③プロレスの神、アントニオ猪木を救った男!
④「敬礼ポーズ」いまやプロレス以外でも有名に!「白目」関しては神がかり!
といったところでしょうか。
今となっては総合格闘技とプロレスは全くの別ものとして観られるようになってきましたが、永田選手は「プロレス最強」と言われた時代に果敢に挑戦していった選手の一人です。
当時は多くのバッシングがあったかもしれませんが、今となってはあんな無謀な挑戦をよくぞしてくれた!という見方の方が大きくはないでしょうか?
「一歩踏み出す勇気」を与えてくれましよね!