プロレスラー『マサ斎藤(まさ さいとう)』は1987年「アントニオ猪木」氏と巌流島で決闘した昭和を代表する名レスラーです。
そんなマサ斎藤選手は1999年に引退し、2000年にパーキンソン病を発症してしまいます。
その後闘病生活を続けていましたが、2018年7月14日75歳で帰らぬ人となってしまいました。
この長きにわたるリハビリ生活の中で最後までプロレスラーとして再びリング復帰を目指し、2020年の東京オリンピックでの聖火ランナーになることも目標にしていたそうです。
今回はマサ斎藤選手の歴史をたどり、プロレス界に与えた影響などに迫ってみたいと思います。
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マサ斎藤のプロフィール
出典:https://d-generationx.com/
本名:斎藤 昌典(さいとう まさのり)
ニックネーム:獄門鬼、監獄レスラー
生年月日:1942年8月7日
出身地:東京都中野区
身長:180cm
体重:120kg
デビュー:1965年6月3日
得意技:監獄固め、捻り式バックドロップ
マサ斎藤選手、実は1964年の東京オリンピックにレスリングフリースタイル日本代表として出場していました。
明治大学のレスリング部に所属しており、前年の1963年には全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝しています。
元新日本プロレス社長の「坂口征二」氏とは共に明治大学の柔道部とレスリング部で活躍し、ものすごく仲が良かったらしいです。
1965年に大学を卒業し、日本プロレスに入門。
翌年東京プロレスへ移籍し、その後アメリカへ渡り、NWAやAWA、WWFでトップヒールとして活躍します。
帰国後は新日本プロレスを主戦場とし、長州力と共に「革命軍」や「維新軍」として数々の名勝負を残していくことになります。
マサ斎藤のプロレス人生とは? 猪木との巌流島の戦いがスゴイ!
マサ斎藤選手が1965年に入門した日本プロレスは、あの「力道山」が設立した団体です。
「ジャイアント馬場」や「アントニオ猪木」も1960年に日本プロレスで同時デビューしています。
その翌年に悪名高い「上田馬之助」も入門!
マサ斎藤選手と共に入団したのが、「サンダー杉山」、「グレート草津」といった大物アマチュアスポーツ選手であります。
日本で最初の日本人ヒール軍団といえば、「狼軍団(おおかみぐんだん)」でしょう!?
「ヒロ・マツダ」を総帥に副将「マサ斎藤」、つづいて「上田馬之助」、「サンダー杉山」、「剛竜馬」といった面子で、1978年に新日本プロレスで旋風を巻き起こすことに!
この一時代を築いたレスラーたちもマサさんが亡くなり、みな鬼籍に入り、誰もいなくなってしまいました。
この「狼軍団」の後も「長州力」や「キラーカーン」、「小林邦昭」と共に「革命軍」を結成、さらにその後、「アニマル浜口」や「寺西勇」、「谷津嘉章」も加わり「維新軍」へと発展していきます。
そして1987年。
あの世紀の一戦「巌流島の戦い」が行われます。
出典:https://www.so-net.ne.jp/
「巌流島の決戦」は前代未聞の日本の格闘技界における歴史的な一戦となりました。
場所は山口県下関市にある関門海峡に浮かぶ無人島、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたとされることで有名ですね!
ここで、アントニオ猪木と時間無制限、ノーレフェリー、ノールール、無観客マッチで行われました。
結果は2時間5分14秒、背後からの裸締めで猪木のTKO勝利、斎藤選手は担架で運ばれることに…。
この戦いはプロレスファンにとって、今後も語り継がれていくことでしょう。
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マサ斎藤がアメリカで逮捕?
マサ斎藤選手、実はアメリカで「逮捕」され、1年半の刑務所暮らしを送っていたのです。
これは彼自身にとっては納得のいかないことでした。
なぜなら、事件に巻き込まれたことによるものだったからです。
1984年4月、マサ斎藤選手がアメリカで活動していた時の話。
当時同じプロレスラーでもあった「ケン・パテラ」とホテルの部屋が一緒になり、彼が近くのマクドナルドで起こした器物破損の事件で、警官がホテルの部屋まで来たのです。
斎藤選手は何も知らずに扉を開けると、そこには警官が…
もちろんケン・パテラが起こした器物破損の事であります。
そこからケン・パテラと警官との大乱等になり、マサ斎藤選手も巻き込まれることになってしまいました。
ケン・パテラは「ミュンヘン五輪の重量挙げ、アメリカ代表」であったこともあり、パワーが半端なくあり、警官を持ち上げ投げ飛ばしてしまうほどの凄まじいものだったと…。
これがマサ斎藤選手にとっての運の尽き、ケン・パテラとともに「逮捕」され「1年6月の実刑」を受けることになってしまいました。
しかし、ここからマサ斎藤選手は、この刑務所生活を自分にとってのプラス材料にしてしまいます。
出典:https://www.tokyo-sports.co.jp/
なんとこの刑務所生活で「肉体改造」と称して、毎日トレーニングに明け暮れることに!
さらには「監獄固め」といった技まで考案してしまいます。
最終的には「獄門鬼」といったニックネームまで付いてしまうほどです。
マサ斎藤選手にとってこの刑務所生活はプロレス人生において切っても切れないものになってしまいました。
マサ斎藤の実況解説も魅力的!
マサ斎藤選手は一戦を退いた後に、90年代から実況解説をすようになります。
出典:Twitter
ここでも他に類を見ない名解説ぶりを発揮します。
これから、そのいくつかの名解説ぶりを紹介します。
(当時の辻よしなりアナウンサーとのやりとり)
辻:「ブラック・タイガーはセンスありますねぇ」
マサ:「エディはプロレス一家だからね」
辻:「今日のベイダーはどうですか?マサさん!」
マサ:「ああ、ホワイトですか」
マサ:「いやぁ、ムタも武藤も一緒ですからねー」
これらのようにプロレス試合では謎のマスクマンとして、正体不明であるはずなのだが、正体をバラしてしまったり、獣神サンダー・ライガー選手を「山田が…」と言ってしまったり、本名で言ってしまうこともありました。
またアメリカ生活が長かったせいもあり、外国人選手については詳しい情報まで知っており、また流暢な英語で外国人選手にインタビューすることもありました。
マサ斎藤さんの通夜では、辻よしなりアナウンサーが司会を務めました。
マサさんについて次のように話していました。
「試合の展開とは全く関係のないことをお話になることもあった。アナウンサー技術を試されているようで必死だった。プロレスの見方、魅力はもちろんだけど、マサさんには多くのことを教えていただいた。今日の私があるのもマサさんのおかげ。」
と振り返りました。
最後にまとめ
いかがでしたか?
マサ斎藤選手について簡単にまとめると
②アントニオ猪木との「巌流島の戦い」はプロレス史上歴史に残る一戦!
③アメリカでの刑務所暮らしが、彼のプロレス人生を更なる飛躍へ
④実況解説者としても、マサ斎藤節を披露し、これからも語り継がれることでしょう
「GO FOR BROKE!」(当たって砕けろ!)
これはマサ斎藤選手の信条であり、この言葉通り、日米を股にかける活躍をし、晩年はパーキンソン病と闘い続けました。
この精神はプロレスラーにとっては大切なことはもちろん、私たちファンにとっても生きていく上で大切であることを身を持って証明してくれました。
今後もプロレス界において、マサ斎藤選手のプロレス人生は語り継がれていくことでしょう。